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【連載・宗教と〇〇】①宗教と遊び 同質か異質か?

 宗教とかけ離れているように見える物事を、宗教に軸足を置いて考えるとどうなるか。哲学のアプローチで社会を照らし、宗教を映しだす新シリーズ「宗教と〇〇」を、今年から始めます。第1回は、羽子板や福笑い、たこ揚げなど正月の遊びにちなみ、「宗教と遊び」を題材にします。

大橋 学修•

prayとplay

共通点は「夢中になる」

 遊ぶは英語で「play」、祈るは「pray」。片仮名表記ではどちらも「プレイ」となるが、言葉の成り立ちは異なる。

 「play」は、動くことを意味する古英語「plegan(プレーガン)」に由来し、「pray」は懇願を意味するラテン語「precari(プレカーリ)」から来ているという。

 ただ、宗教と遊びには、夢中にさせたり、喜びを与えたりするという共通点がある。

 遊びを『広辞苑』(岩波書店)で引くと、①遊戯②猟や音楽のなぐさみ③酒色や賭博の遊興④遊女⑤仕事がないこと⑥しまりのないこと⑦人生から遊離した美の世界を求めること⑧機械の部分と部分とが密着せず動きうる余裕があること―とある。


ルールに従うことで、宗教の持つ非日常的な世界観に没頭することができる
ルールに従うことで、宗教の持つ非日常的な世界観に没頭することができる


 遊びは、かなり広い範囲を対象とした言葉であることが分かるが、①~⑧を分類するならば「現実から離れた状態に身を置く」、あるいは「余裕がある状態」に大別できるだろう。

 「現実から離れた状態に身を置く」という点では、神仏の世界に身を投じる宗教と通じるところがある。また、仏教者の何事にもとらわれない姿勢は、「余裕がある状態」に近いようにも感じる。


誰もが楽しめるようにルールを定めた「棒サッカー」
誰もが楽しめるようにルールを定めた「棒サッカー」


 遊びの本質を語る上で多くの学者が引用するのが、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガ(1872~1945)の著書『ホモ・ルーデンス』(1938年)だ。同書では遊びを「直接的機能が自明ではない行動」と定義している。

 これに基づくと、宗教は遊びではない、といえる。宗教には、苦しみからの脱却という目的があり、「直接的機能」を持っているからだ。

 宗教と遊びは、いったい同質なのか異質なのか。


人間だけは大人でも

 そもそも人間は、なぜ遊ぶのだろうか。

 動物行動学では、野生動物の子どもも遊ぶことを認めている。高所からの転落や危険物との接触など、遊びからリスクを学び、大人になるのだという。そして大人は生存するために、リスクのある遊びをしなくなる。

 ところが人間だけは、大人になってからも遊ぶ。

 心理学者で浄土宗晴明寺(京都府亀岡市)の真田原行住職は、進化の過程で脳の機能に何らかの変化があったと推測する。「人間の場合は、大人になってもリスクのある行動を取ることで、さまざまな環境に適応して生きていけるようになった。遊びもその一環だったのではないか」と指摘する。

 ホイジンガは「遊びは文化よりも古い」「人間文化は遊びの中において、遊びとして発生し、展開してきたのだ」とも主張した。宗教が文化の一つであるなら、その根底には遊びがあるのかもしれない。


ルールに基づく世界観

 日本の正月は、歳神を迎える門松や鏡餅を飾り、初詣をしたり修正会(しょうしゅうえ)を開いたりして、一年の無事を祈る。このような宗教儀礼の一方、さまざまな遊びも楽しむ。いずれも新しい年を喜ぶという意味がある。


正月ならではの遊びはたくさんある
正月ならではの遊びはたくさんある


 宗教と遊びの共通点は、他にもある。公園で追いかけっこをしている子どもは、人や遊具にぶつかりそうになるほど夢中になっていても、自分たちで決めたルールは忠実に守る。宗教にも、戒律や儀礼に関するさまざまな決まりや作法があり、忠実に守ることで喜びを得る。

 いずれもルールによって非日常的な世界が成り立っていることに、注目すべきだろう。